
本物とは何か──風呂敷に宿る、日本人の精神性
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風呂敷は、古くから日本の暮らしに寄り添ってきた布文化です。
世の中にエコ商品があふれる今、
「わざわざ風呂敷を使う理由ってあるの?」
そんなふうに感じる方も、いらっしゃるかもしれません。
でも、風呂敷を広げて「どう使おうか」と少し考える、その時間。
包み方や結び方に込められた気づかい。
受け取る人への思いやりが、使う所作にそっと現れる——
その丁寧さに、私はやさしさを感じます。
風呂敷は、布以上のもの。“心の器”だと思うのです。
なぜ、いまだに消えずに残っているのか?
風呂敷は、決して合理的でも、効率的でもありません。
結び方や解き方を知らないと、エコバッグとしては使いにくく、
素材によっては雨の日に濡れてしまうこともあります。
それでも、長いあいだ日本人の暮らしの中で消えることなく、
静かに息づいてきました。
そこには、「不便さの中に込めた一手間」の中に、美しさを見出す価値観がある。
この美意識こそが、日本人の精神性そのもの。
風呂敷には、その心が宿っているからこそ、
今もなお愛されているのだと感じています。
小さな手間の中に、暮らしの誇りがある
私の祖母の家は和室中心で、生涯ベッドを持たず、布団を使っていました。
寝る前には自分で布団を敷き、朝は押し入れにしまう。毎日その繰り返しです。
あるとき「ベッドにしたら楽じゃない?」と尋ねた私に、
祖母は「自分でできるうちは続けたいの」と笑って言いました。
その姿を思い出すたび、
“少し大変なこと”を続けられる日々への感謝、
そして、自立の象徴として大切にしていたのだと、今はわかる気がします。
風呂敷もまた、手間のかかるものです。
でも、そのひと手間に、人を想う気持ちや祈りがこもる。
包むことで、感謝やぬくもりを伝えようとする——
そんな文化だからこそ、日本では無くなることなく大切に受け継がれてきたのでしょう。
世界に広がる「FUROSHIKI」の、本当の価値を伝えたい
最近では、エコやサステナブルの観点から、海外でも「Furoshiki」が注目されています。新しいアイディアを取り入れたFuroshikiを見ると、なるほど、面白いなと感じます。ストレッチ素材でしわにならず気軽に包めるもの、再生ポリエステル、防水・撥水加工されたもの、結ばなくてもくっつくものなどたくさん増えていて、確かにとても便利です。
ただ、その便利さの裏で、
本質の部分。「細部にまで気を配る美しさ」や「一手間を愛する心」が忘れられてしまっている気がするのです。
「KIMONO」や「SUSHI」に見る文化の表面化
たとえば、“KIMONO”と名のついたローブや、“SUSHI”を出す外国のレストラン。「RAMEN」もまた、世界中で人気があります。
私が以前暮らしていたベルギーのブリュッセルにも、日本人オーナーのラーメン店がありました。
懐かしい漫画を読みながら食べるラーメンと、日本語でのやりとりが心地よく、
そこに行くと日本に帰ったような、まるで“心の拠り所”のような場所でした。
数年後、再訪したときにはもうそのご主人はいなくなっていて、
新しいラーメンには、別の味がありました。
もちろんそれが悪いわけではありません。
でも、本場の味を知らない人が作るラーメンには、
何か大切なものが欠けているように感じたのです。(これはあくまで私の感想ですが)
風呂敷も同じ。
“FUROSHIKI”という名前だけが残り、そこに込められた精神性——
物を大切に扱う姿勢、その時を思い出す季節や空気感、人との距離感。
そうした“目に見えない美しさ”が抜け落ちてしまうことがあります。
守り、育てていくために
だからこそ、私たちは「風呂敷」という日本文化を
“本質から”伝えていきたいと考えています。
MUSUBISMの風呂敷は、日本の職人が一枚一枚、伝統技法の手捺染で染め上げ、丁寧に縫製しています。
インクジェットではありませんので、
すぐに大量生産はできませんし、仕上がりまでにお時間をいただくこともあります。けれど、その一枚には、祖母の持っていなものと同じような感覚の、職人の生き様が込められています。
機能性を超えた、心の贈り物
私たちが風呂敷を通じてお届けしたいのは、
“機能性”だけでなく、“精神性”です。
風呂敷は、布以上のものを伝えられるもの。
「想いを包む文化」
「心と人を結ぶ、目に見えない絆」
これこそが、日本の風呂敷が持つ“authenticity”──
本物としての価値なのです。
誰かを想い、何かを大切に包み、
時とともに心を結ぶ。
そんな風呂敷の魅力を、世界の人たちにも知ってもらいたい。
それが、風呂敷を作る私たちの、心からの願いです。