
心に耳を澄ませる、聖なる境界線
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時折、何の前触れもなく、
心の奥で小さな違和感が芽生えることがあります。
それはとても小さく、ほとんど気づかないような感覚。
けれど、それは確かなサイン。
心の奥底からそっと鳴らされる、風に乗った鈴の音のようなものかもしれません。
最近、身近な人とのやりとりの中で、
私はそんな静かな違和感を覚えました。
理由ははっきりとわかりません。
冷たい言葉も、あからさまな態度もありませんでした。
それでも、空気の温度、視線のわずかな揺れ、
言葉の隙間に、どこか変化を感じたのです。
私たちは、こうした小さな違和感を「気のせい」と片付けたくなります。
でも実はそれこそが、心が発するもっとも純粋な直感なのかもしれません。
神社の結界のように、心にも境界線を
そんな時、思い出したのは、日本の神社の風景でした。
鳥居、注連縄、玉砂利の道――
これらはすべて、日常と聖域を分ける境界線を示しています。
その境界線は、人を拒むためにあるのではありません。
神聖さを守り、私たちに敬意をもって一歩踏み入れることを促すためにあります。
私たちの心にも、同じように静かな結界があっていい。
必要なときには一歩下がり、自分の聖域を守ることが許されているのです。
このことを、あの小さな違和感が教えてくれていました。
古くからの教え、そして現代の知恵
禅の教えに、「放下著(ほうげじゃく)」という言葉があります。
――すべてを手放しなさい。
私たちはときに、「わかってほしい」「うまくやりたい」という見えない荷物を背負いすぎてしまいます。
でも、必要以上に重くなったものは、静かに手放してもいい。
この言葉を思い出したとき、
ふと頭に浮かんだのが、メル・ロビンスの「Let Them Theory」でした。
「相手がそうしたいなら、させておこう(Let them)」
それは諦めではなく、信頼です。
変えようとせず、コントロールしようとせず、
ただ静かに、自分を守るという選択。
また、禅の教えに「知足(ちそく)」という言葉もあります。
今あるものに満足し、欠けているものを追い求めないこと。
そして日本独特の「間(ま)」の感覚。
言葉と言葉の間合い、人と人との間、
その余白を大切にするからこそ、心は呼吸できるのです。
心が張るべき、静かな結界
私は、その人を嫌いになったわけではありません。
ただ、今は静かに距離を取りたい。
それは冷たさではなく、
関係を守るための、心の静かな結界です。
無理に詮索せず、問い詰めず、
心が「ここまで」と告げるラインを信じること。
神社の結界のように、
それは目立たず、けれど揺るぎないもの。
もしご縁があれば、また自然と門は開くでしょう。
でも今は、自分の心を静かに包むことを選びたい。
そう思えるのは、
あの小さな違和感が、教えてくれたからでした。
ふろしきに結ばれて生まれたご縁
その一方で、
ふろしきを通して、思いがけない新しいご縁も生まれました。
遠くイスラエルで、ふろしきを深く愛してくださっている方との出会い。海を越えて、文化を越えて、
シンプルな一枚の布が、静かに心と心を結んでくれました。
私が大切にしているものが、誰かの心にも届いている。
それだけで、胸がいっぱいになるような感謝を感じます。
ときには、ただ一日を静かにやり過ごすことも、生きる力。
またある日は、自然と光が差し込んでくる日もある。
ふろしきがそっと包むように、
私たちも自分の心をやさしく包みながら、生きていきたい。
今日もまた、感謝の気持ちとともに。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
もしあなたの心にも、静かな違和感が芽生えているなら、
それはきっと、心が発している大切なサインです。
無理に答えを出さなくても、無理に強くならなくても大丈夫。
ただ、今日という日をそっとやり過ごすことも、十分に尊いのです。
ふろしきが大切なものをやさしく包むように、
どうか、あなた自身の心もそっと包んであげてください。
今日もまた、こころ穏やかな一日でありますように。